親を尊敬してるって言っている人って信用できない。

尊敬している人に自分の親を上げる人の言葉を僕は簡単には信用しない。

人として正しいことをしている人です!のようなあざとさが見え隠れするからだ。
特に就職活動においては、リーダー体験とかコミュニケーション能力が高いとかと同じ位に気持ちが悪い。

ええ、もちろん親を尊敬してくれて構わないよ。
ただ、理由が「僕を産んでくれたから」「育ててくれたから」では、何も考えていないように思える。
産んでくれたから尊敬するなんて、親=産んでくれた という命題が成り立つのだから、親=尊敬するという事になるじゃないか。
まったく証明がされていないナンセンスな回答だ。

で、僕が前から疑問に思っているのは、人として親に尊敬や感謝するのは善いという人がいるが、それはおかしいのじゃないかと思う。
そりゃ、親は子を育てているという自負があるさ。
僕だって父親というカテゴリに含まれるので、子育ての困難も少々わかる。
そう、生むのも育てるのも大変で人生をかけた一大事業であることは間違いない。
だからといって子は親を感謝、尊敬するべきであるというのは少々乱暴ではないか?

子をスポイルする毒親だって、虐待をする親だっている。
このようにすべての親が尊敬に値するわけではない。
そこまでひどくはなくとも、親だって人間だし欠点だってあるし、対等に見たらどうしても不味い点というのは多い。
子に楽しい時間を多く与えている賢母も、少なくない数のトラウマや悲しい思いを子にさせている。
無条件に感謝、尊敬されるという人は誰一人いない。

逆に、親は子に尊敬される人間であるべきだという立場もある。
無条件に尊敬されるわけではないけれど、努力をして尊敬されるような大人になれということだ。
だが、結局は一時期は尊敬されないどころか恨まれたり失望されたりすることが必要だと思う。

いつか子どもは親離れするわけだ。
そこにおいて早い時期に手放しの尊敬とか感謝があると、親と自分を相対化できない。
中学生くらいの反抗期では親に反発はする。
だが、それは正論を言われた時の反発心に似ている。正しさは親にあってその閉塞感にもがいているのが中学生時代だ。
そこから高校、大学などに入って落ち着いて周りが見えてくると、今度は理性的に親が一人の人間として見えてくる。
今度は自分にも正しさがあり、親にも正しさがある。そのような子の精神上では対等な存在になった親を心の中で断罪をする。
親を相対的に見ることができ、単なる一人の大人に引きずり下ろした時に人は大人になるのだとおもう。

以上プロセスを経た上で、一人の人間として感謝、尊敬するならばわかる。
一度は恨み、嫌った上での尊敬、感謝には親の人間性への深い理解があるはずだ。
結局は「産んでくれてありがとう」の一言に収斂されるかもしれないが、その一言までの長い説明は人それぞれ違ったものになる。
もし、あざといと思われるかもしれないこと覚悟で面接などで親を尊敬しているというのならば、その一言の前の長いストーリーを教えてほしい

親と対等になって見ることができた結果、尊敬できないというのならばそれでもいい。
それは身近な反面教師だし、自分が親になった時に貴重な行動指針にもなる。

親もそうだけれども、親や上司や年上すべてをふくめて
目上の人を敬えという価値観があるが、無条件に敬うのではなく
批判的視線を忘れずに目上の人を見なければ、前の世代の欠点が次の世代で改善されなくなる。
それに、そのような改善点を明らかにしてくれる存在は目上の人自身にも貴重な存在だろう。

批判精神は人を理解するのに必要なエッセンスだ。
批判をすることもされることも恐れずいこう(僕も含めて)

 

スポンサードリンク

関連コンテンツ