ブログなに書こうかな〜
とはてブをダラダラと読んでいたら、こんなニュースを発見
文科省 人間力判断する入試を
なに…怖い…人間力って人間としての資質を教育で決めるの??
こわいこわい
と、タイトルに釣られて怖がっていたのだけれども、
学力一辺倒だけでなく論文などで判断していくということか。
つまり、AO入試や就職についての面接のようなものか。
しかし、人間力という言葉は良くない。
極めて乱暴で、かくあるべきという人間像を押し付けかねない印象を受ける。
もちろん、内容がまだ具体的でないので批判もできないが、僕のような自由を愛する連中にはちょっとアレルギー反応が出そうな言葉だ。
学力一辺倒な教育の対義語は、数値にできない人間性の教育なのか?
人間力という言葉がまだ大雑把すぎて、批判も勇み足になるだろうが、
国として教育の判断基準にAO入試や就職面接のようなものを取り入れるのだろうか?
そうだとしたら結構問題があると思う。
国が行う教育を修めたかどうかの基準というのは公平であるべきだ。
学校の面接、会社による面接というのは受験する人の人となりを見るものではあるが、それはその特定の学校や会社に適合するかどうかとかそういうものをみるべきものであって、それはある程度は公平でなくともいいわけだ。
試験の数値は満たしていないが、君の資質に僕らは投資したいと思うのであれば会社などはそうするだろうし、そこは個性とか育った環境など公平ではないけれど、どのような人間を採用するかは各団体の裁量に任されてもいい。
だが、国が人間性が適合するかどうかというのは日本人として適合しない、もしくは人間として適合しないとレッテルを貼られてしまうことと同義になってしまう。
会社や学校であれば捨てる神があれば拾う神があるが、国ではそうはいかない。
人間力とは言わずに修辞学や論理学の力と言い換えるべきでは?
各大学では論文などを取り入れて工夫をしているということを例にあげて、人間力教育について触れているが、
つまり論文など答えが決まっている試験だけでなく考える力を育てたいといういみで人間力といっているのだろうか?
だとしたら、論理学や修辞学の分野だろう。
いまは国語の一分野として習うだろうが、それを独立化させて
各教科でプレゼンや議論をさせるという教育をさせるというのならば大賛成だ。
それらは『学』という言葉がつく通り体系だてられた技術だ。
それらはスキルになるし、学生の習熟度も計りやすい
『力』のつく言葉の乱暴なほどの力
というわけで、議論やプレゼン、論文などを取り入れる教育ならば賛成で、
もっと道徳的や個性、性格などにまで踏み込んだ基準を入試に取り入れるというならば反対という立場を僕はとっている。
両者の違いはおそらく以下のようなところで出てくるだろう。
論文などでAは是か否かという命題があって、ある学生は否という論文を書き上げた。
Aが否であることを説く説得力や論理展開などのスキル面を見るのが前者だ。
一方後者は、Aが否であるということは常識と違うから認められないという事になりがちである。
もちろん、イジメや暴力は今の価値観ではNOであろう。
それは道徳として教師や親が伝えるべきことではあるが、入試や学業を修めたかどうかについては次元が違う話だ。
やってはいけないことをやってしまいがちな子の裏には、発達障害だったり、家庭の不和など何かしら原因があるかもしれない。
それは解決せねばならないが、学業とは別のことで解決する事柄である。
もしそれらの道徳的なことを修了や合格の条件に入れたとしたら、本来ケアしなければならない子どもの切り捨てになりかねない。
もっとも、まだ内容がわからないのでおそらくこの批判は僕の勇み足であることを願う。
だが、『力』とつく言葉というのは何かこうかくあるべきとする圧力を感じる言葉だ。
女子力とか、一部の人間が勝手に思い描いているパターンに当てはまっているかどうかで決まっているだろう?
人間、男でなければ女だ。だが、気立てが良くて優しくて守りたいとかそういう人が女子力がある人なんだと言われているという事は、女とはかくあるべきという乱暴な決め付けがなされているわけだ。
女子力程度だったらいいさ。精々が女性の好みの問題でおわる話だからだ。
だが人間力という言葉を国が使うとなれば、問題は深くなってくる。
早々に、人間力という言葉からもっと具体的な言葉に置き換わって安心させて欲しい。
こういうことに反応してしまうのは、やっぱり僕は左翼なんだな。
タカ派リベラル左翼と自称しようかな。