初めてPCを触った時の感動は今でもわすれない。
僕はWindows95からだった。
親の同僚のPC9821をもらったのだ。ネットの接続設定も親の同僚の人がやってくれた。
当時でも古いパソコンだったのでネットをするのが精々だったが、全国の人と繋がれる感動はPCを通じて感動した出来事で今でも一位だ。
ただ、友人の持っている98と比べても古く、ゲームもできないことから
お小遣いやお年玉をかき集めて、当時破格のやすさを誇っていたSotecのデスクトップPCをかった。Windows98 SEだった。
当時高1だったけれど、ラストエリクサーの如く中学一年の頃からのお年玉を貯めていたのでバイトせずとも買えた。
自分で買ったのでもらったPCとは比べ物にならない愛着がわいた。と同時に不安でもあった。
10万もだして買ったPCだ。
壊れてでもしまったら最悪だ。
立ち直れない。おそらく30代の今の感覚で言えば新車を無保険で大破させてしまうくらいに立ち直れない出来事だろう。
そんな僕の気持ちとは無関係に当時のWindowsはブルースクリーンが頻発した。
物理的に壊れなかったとしても、Windowsが起動できなくなったらもう打つ手はない。
本に書いてあるとおりに起動ディスクなるものを作成し、非常時の訓練も行ったけれどもおそらく当時の僕には無理だっただろう。
当時はPCに対する新鮮な楽しさと、そして恐怖と共に生活をしていた。
Ubuntuにしてから愛着はかえってなくなった
失われてしまうかもしれない恐怖は愛情を強くする。
初めてPCを買った時から数年後、Windowsの再セットアップも何回もこなしたあとでも、Windowsの再セットアップはやりたくなかった。
たとえ外付けHDDに重要なファイルをバックアップしていたとしても、遅いインストールとその後の更新、使っていたソフトウェアのインストール。
アンチウィルスソフトなんかはアカウントで認証をしなければ再インストールもままならなかったと記憶する。
とにかくWindowsの復旧ってのは煩わしくちょっとこなれてきた大学生の僕にしても恐怖の対象だった。
ところが、Linuxに改宗してからというもそのような当時の恐怖なんてわすてしまい。
半年ごとにクリーンインストール。
飽きたら別のディストリに、ちょっと環境が壊れたと思ったらめんどくさいからクリーンインストール。
DropBoxなどのオンラインストレージが豊富になってきたこともあってローカルに重要ファイルを置く機会も減って、カジュアルに環境を変えてきた。
なにせLinuxはパッケージ管理システムがあるから、簡単に最新のソフトウェアがインストールできるし
インストール作業も簡単なものが多いからね。
でも、Ubuntuにしてから環境に愛着を持つってのは少なくなった気がする。
幼い頃の恐怖に立ち返れるArch Linux
でもArch Linuxはパソコンを買った当時に立ち戻れるんだ。
アップデートでも立ち上がらなくなる恐怖。
いやWindowsと一緒でインストールメディアを使って起動してchrootをして復旧をすればいい。
ただ、それですら怖い。
もしそれでも復旧不可能だったとしたら、今度は1からインストールしなおさなければならない。
インストール後、Xの設定をして、日本語環境とかntpとか最低限使わなければならないソフトウェアを入れなければならない。
1日時間が潰れてしまう。
だが、その恐怖があるからこそ事前にそのリスクを回避しようと思うし、wikiや公式のnewsをよく読むようにするし
それにより理解もふかまる。
そしてより環境に愛着がわく。
それにこのような手探りでのPCと向き合うというのは14年前に感じたあの新鮮な感じに似ている。
マゾではないぞ。
世話の焼けるペットのようなものだ。