大きな事件が発生し、その事件がゲームの内容にそっくりで犯人がそれに傾倒していると
「ゲームは現実と虚構を区別しづらくさせる」というような話がでてくる。
もしくは、アニメ・漫画、なんでもいいのでここ数十年で発展したサブカルチャーなら標的にされがち。
これからする話は、統計をとったわけでもサンプルがあるわけでもないし、僕は心理学者でもないので、
単なる個人の経験に基づいた感じ方の一つでしか無いのだが、
ゲームなんかより「小説のほうが虚実が危うくなりやすくはないか」という疑惑を僕はもっている。
僕は比較的虚構世界に影響されがちなタイプだと思う。
Age of Empireというゲームでは木を切って資源を集めるという作業があるのだが、町で林を見ると伐採所を作って伐らなくてはならないと思ってしまっていた。
「ああこれは現実世界だったんだ」とすぐに気づくわけだが、その虚実が危うくなる度合いでいったら小説のほうが多い。
過去読んだ主人公の体験が自分の経験であったと偽の記憶として残ることは多数あった。
描写が丁寧だと本当にありがたいことに自分のように思えてしまう。
ゲーム危険説の一つとして、リアルすぎるということがよく言われる>
リアルすぎて現実とゲームの境目がなくなると。
でも、小説のほうがリアルすぎる。
というのも小説は字だけだけれども、それを読んだ時に情景を頭に思い浮かべる。
その浮かべる情景というのは自分の経験をもとに構成されている。
主人公の家を友人の家を基に考えたり、舞台が自分の故郷の風景を組み合わせて作られたりと、小説内で描写されている風景と自分の記憶の中の幾つかの場面の最大公約数的な情景が頭に思い浮かばれるわけだ。
それは自分の経験、記憶からくるものなのだから正に今まで生きてきたリアルの記憶のコピーだ。
時間も経てば自分の記憶なのか小説を読んでいる時に構築した偽の記憶なのかが曖昧になりがちだし、最終的に自分のリアルな記憶だと誤認することだって大いにあり得る。
虚実の境目がなくなると事件を起こすのか?
そもそも、虚実の境目が曖昧になることによって事件を起こすような反社会的な人間になるのか?
暴力的なゲームのように簡単に現実でも暴力をふるうようになる。
反社会的な資質があって、それが暴力的なゲームを好ませる原因になって、また事件を起こす原因にもなったという因果が逆のパターンも考えられるだろう。
どちらが本当がはわからないが、虚実が曖昧になる度合いでいったらばご丁寧に映像を提供してくれているメディアよりも
自分で考えるほうが曖昧になりやすそうだし、
それで事件に結びつくかどうかというのは飛躍しているとも感じる。