『明日ママがいない』や村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』など作品の表現について
苦情が寄せられるというのをよく見る。
明日ママについてはあまり調べてないのでなんとも言えないが、
村上春樹の短編は、主人公がタバコをポイ捨てする女性を見て主人公が「中頓別ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と表現したことが中頓別町に問題視されたそうだ。
僕はこれを表現狩りと見る。
つまりそういう描写があってもいいという立場だ。
ポイントは主人公がそう思ったことということ。
例えば鳥瞰的な視点での地の文で『中頓別ではポイ捨ては公然と行われている』と表現すれば、断定になっているし少なくとも小説の世界内では事実ということになる。
実在する街の風評問題になるというのもわかる。
だが、主人公がそう思ったことなのだから、小説内の世界でも事実ではないかもしれないし、あくまでも主人公の心の内の仮定の話にすぎない。
それでも町の人にとっては不愉快な気持ちになるのはわかるが、
主人公の心の内の表現まで規制されるということにもつながれば怖いことになる。
同性愛や人種差別はもちろん避けなければならないことだろうし、地の文で断定口調で差別的な事を小説でもかこうものならば炎上必至なのはわかる。
でもフィクションの登場人物でそのように思う人間がいたとしてもいいじゃないか。
だいたい居たとしても悪役である場合がおおいが、写実的な小説ならば善良な人間が偏見や差別心を持つという部分を書いたっていいし、そこを遠慮しては文学は廃る。
今回の小説内ではそこはそれほど重要なシーンではないかも知れないが、たとえ少しだとしてもフィクションの登場人物の思想信条の自由は保証して欲しい。
極端だが善良で公平で誠実な人間ばかりの主人公が求められるようになったら、つまらない時代になってしまう。
作品と作者の同一性の問題
作品の登場人物の主張が、作者の思っていることだと思う人もいる。
一部作者の分身になっているキャラクターもいるが、全員が全員そうではないし
むしろ登場人物は自律した別の人格であることのほうが多い。
小説は論説文のように著者の主張が書かれているわけでは必ずしもない。
登場人物がこの人格ならばどう思うだろうというエミュレートした結果が紙に表現されるだけであって、小説の人物の考えが作者のものと必ずしも同じであるわけではない。