極端な例を持ち出すことの弊害

あることを非難するために、極端な例を持ちだすことはよくあるが、
これって極端じゃないけれども本当に困っている人々の邪魔をしている。

極めてひどい労働環境のブラック企業など最近クローズアップされるようになったが、
そういう極端な例ばかりを批判の対象にすると、一般の人が多く困っている普通の悪い部分が改善されないのではないか?

月300時間のサビ残で過労死寸前だが、個人崇拝が行き届いているカルト的な企業なんて確かにひどい。
それは改善されなければならないが、それがブラック企業の一般的なイメージになってしまうと、わりかし頻繁に行われている急な転勤や年休を取れない体質などに世間の目は注目されなくなってしまう。

ブラック企業という言葉と、極端な企業のイメージが結び付けられてしまうと
実際に改善しなければならない法令違反に世間は気づきにくくなる。

もちろん、ひどいブラック企業は改善されるべきではあるが、
多くの人が困っている常に残業がある(たとえ一日一時間でも)状態がすでに改善されるべきであるということが認識されることとセットにして、最もひどいブラック企業と共に普通の労働環境の改善もされるのが望ましい。

極端な例は楽

この極端な例を批判に使うのは、たしかに議論の材料としては楽だ。
誰も「いや、違う」とは言いにくい。

あくまで例だけれども、
すぐに会社をやめる新卒を批判するために、考えなしにすぐ辞めて考えなしに安定した仕事をさがすような若者を引き合いに出せば、論敵は「いや会社が悪い」とは言い出しにくい。

でも、実際に辞める人間が多い場合は本当に全員がそのような人たちばかりなのだろうか。
早すぎた一般化かもしれない。

そういう検証プロセスをすっ飛ばして誰もが批判しやすい人を持ち出すのは楽だ。

でももしかしたら原因は他の所にあって、それが原因で困っている人は若者だけではないのかも知れない。
たとえば、実は労働環境が悪くて離職率が高かったとか。

極端な例をだすというのはあくまでも、議論の中で相手に悪い印象を与えるためだけの効力しか無いし、
本質からはそれる可能性がある。

米軍基地の真ん中に飛び地のように暮らしている人がいるそうだが、それはそれで不幸だし国からの支援も望まれるところだけれども、
もしそれを米軍批判の格好の材料として使ったとしても、『米軍は一般市民を飛び地で暮らさせても平気な奴ら』という印象をもってくれたとしても、本質的な問題は伝わらない。

最もひどいブラック企業、考えなしの若者、米軍基地内の飛び地、たしかにこれらは改善されるべき問題ではある。
ただ、問題一般を論じる場面に置いて神輿のように担ぎだしても本質は見えてこない。

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