新道徳「みんなと仲良くなる必要はない」

道徳の教科のために議員がなんたらかんたらという記事を読んで、
そしたら増田でも「なんで皆仲良くならないんだ」とかいう話も出てきて、
今ぼくは空前の仲良しブーム

『皆、○○と仲良くしましょう』(○の中には、兄弟、友達、クラスメイトなどが入る)
というのは子供の頃から聞かされてきた言葉だろう。
実現は難しいが、内容自体は目指すべき正しい事を言っていると誰もが思っているでしょう。

でも僕はそんなの必要ないと思う。
むしろ、そういう画一的な道徳教育が恐ろしい結果を招くのじゃないか?

僕は『仲良くできればいいけれど、無理に仲良くする必要はないけれど公平ではありなさい』と言いたい。

仲良しなんてできない

価値観はそれぞれ人はそれぞれでも、何かすべてが丸く収まる神の一手があると思っている人が多いのじゃないか?
「価値観はそれぞれ、人もそれぞれ」ということは、あちらが立てばこちらは立たないという状態に必ずなる。

水と油のように馬が合わない人が必ずいる。
そこまで分かり合えないわけではないとしても、
思想、イデオロギー、好き嫌い、大きいことから小さいことまで
自分以外の人は全員他者でどこかしら自分と違うのだから、なにかしらどこかで噛み合わない部分は出てくる。

そんな人たちと「仲良くやっていこう」なんて言っても実現不可能な戯言でしかない。
実際、大人は戯言だと気付いている。子どもに仲良くしなさいと言っておきながら、派閥争いやニコニコ人に近づきながら美味しいところは持って行こうとしている。

子どもに教えていながら何も実現はされていない。

仲良くなんてする必要はない

実際、そんな仲良くなんてする必要はない。
仲良くする人とは仲良しになればいい。
だけれども、仲良くできない人とは良い距離感をつかめるようにアドバイスすべきだ。

無理やり仲良くやろうとしても、どっちかが(主に力が弱い方が)自分を抑圧して相手に合わせることになる。
そして見せかけ上の仲良しでその場は保たれるが、結局臭いものには蓋をしているだけに過ぎない。

子供同士が喧嘩(またはイジメ)をしていて、教師がそれをやめさせて仲直りをさせて仲良しごっこをさせる。
それで実際にお互いのわだかまりが解消されればいいが、すべてがそれで解決されるわけでもなく、ただ見た目は仲良くなっただけということのほうが多い。
とくにイジメだった場合は結果が最悪の方に転ぶ。
仲良しでない状態を教師は問題とするし、
いじめっ子とは仲良くできない状況に罪悪感さえ覚えてしまうかもしれない。

そんな作られた仲良しなんて必要ない。
見た目の仲良しではなく、仲良くできない場合は距離をとりお互いの衝突を隠さない。
そしてお互いに問題を感じている場合は『公平』に解決されるべき。
公平とは、仲良くなることを目指すのではなくお互いの主張をぶつかり合わせてそしてお互いの譲り合える地点を見つけること。
それは暴力や権力などによって作られたものではなく当事者同士の同意によるもので、教師はその手助けをして欲しい。

強固な村社会を形成させる

『皆仲良く』という教育によって排他主義を醸成させるのではないか?

仲良くグループと交じり会えない人というのはいる。
『皆仲良く』と言っているのに仲良くできない場合は誰かが原因と当事者は思う。
そして大体数は大体『正義側』になってしまう。

つまり、我々のグループと仲良くなれないようなマイノリティは場を乱している悪だというレッテルがはられてしまう。

それがイジメだ。
イジメはおおよそいじめっ子の『正義』によって成り立っている。

『皆仲良く』では大体数と馬が合わないマイノリティは救われない。

正直者がバカを見る

大人になれば皆仲良くなんてできないことはわかるし、経済も社会もどこでも利害が衝突しているわけで、
『皆仲良く』では実情に即していない。

そもそも、裁判や契約がある事自体お互いの主張をまとめるのが困難だということの証だ。

だからこそ、『公平であれ』のほうが正しい教えなんだ。

嫌いあっている同士でも、契約は絶対だし、法律はお互いを縛って折衝させてくれる。

そもそも定義が曖昧な『仲良く』では、力があるものが一方的に押し付ける仲良しさによる恐怖政治がしかれる可能性だってある(ジャイアンが正しく生きることに目覚めて結果のび太たちを困らせていたエピソードみたいにね)

だが、法律や契約による『公平さ』というのはそういう曖昧な部分を極力なくしてくれて、
心からは仲良く離れないけれど、衝突は減らせるだろう。

『無闇な衝突は避けよう』が『皆仲良く』の本質だとしたら、『公平さ』を全面に押し出すほうが理にかなっている。

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