夏だね。
怪談の季節だね。
以前ほどホラー映画は流行っていないけれど、
怪談本は定期的に出ているし、怖い話大好きな者としては良い季節になったね。
Jホラー映画ブームはリングのころや、その数年後の呪怨の頃は多くの映画が出てきた。
さて、ちょうど今呪怨シリーズの最新作が出ているけれど…どうなんでしょ。
何年も続いていると、純粋な怖いという思いがなくなって
お決まりのシーンで喜ぶ伝統芸を見ているような気持ちになってくる。
一番最初の呪怨は最怖だった。
ある住宅にまつわる不気味な出来事が時系列もバラバラに細切れに無機質に流されているだけの映像だ。
それが言葉に出来ない緊張感を呼び、少しずつ怪奇の正体がわかっていくことでさらに怖くなっていく。
時系列もバラバラですすむある家に纏わるオムニバスという知識がなく見始めると、誰が住人なのかどうして住人が変わっているのかそして何がおこっているのか
「何なんだ。あの家は」という得体の知れない恐怖が充填されていく。
その不気味さが怪談なんだよ。
トシオとかカヤコとかその怪奇を表現する名称がついてしまった時点で、不気味さはほぼなくなる。
たしかに身に迫る恐怖は感じられるけれども、それはデッドコースターなどの単純な身の危険に対する恐怖を連発する映画か、プレデターやジョーズのような恐ろしい敵に対する恐怖を扱った映画に近い物になっている。
2つとも面白いが怪談ではない。
名前がついた幽霊が人を襲うのはモンスター物に近い。
貞子にしてもカヤコにしても、すでにキャラクターとして成り立ってしまっている。
そのキャラ自体が怖いキャラとしてあざとくアピールしている。
それが逆に怖くない。
恐らく人間は、神話の時代から恐怖の対象に名前や人格を与えてきた。
疫病や飢饉、死、それらには神や悪魔など恐ろしいけれども名前で表せる誰かだ。
恐ろしいけれども恐ろしい対象が分かる。
理屈や名称をつけて、どのようなリスクなのかと理解することは恐怖に対する人間の本能なのかも知れない。
ホラーシリーズの正体不明の幽霊に名前や人格がついてしまうのもその人間の性によるものなのではないか。
正体がわからなければ話が落ちないし、登場人物がどのように恐怖と対峙していく過程がなければ物語が成り立たないが、その過程でどうしても恐怖の対象に名称をつけなければならなくなる。
だから幽霊は人格がついてしまうものなのかもしえない。
しかし、正体不明の怖さをそのままにしておくために幽霊に人格をつけないようにただ不気味な現象だけを表現していけばいいというわけでもない。
ただ怖がっている主人公の話だったら単なるお化け屋敷だ。
何かしら解決に向かって行こうという方向性があるから観客もそれに呼応して進もうと言う気も起きるし、逆に進むなという気持ちも起きる。
主人公があがくほど観客の心は穏やかじゃなくなる。
その足掻く中で少しずつ恐怖のベールは剥がれてくる。
それは実はどんでん返しのための偽の事実かもしれないし、最終的にはぐらかされるだけかもしれないが、
恐怖の暫定的な概要が見えてきた時点で、もう恐怖に名前が付きかけている。
一番最初の恐怖は水物でそのままにはしておけない。
どうしてもクライマックスに向かうにつれ半減していく。
だけれども何者であるかというネタは必要以上に明かさないで終わって欲しい。
そして、顔も生まれも人間の頃の姿も見せないで欲しい。
結局全容はわからないまま、次回作は無いようにして欲しい。
そのまま話を続けようとすればどうしても前作より突っ込んで幽霊の正体に迫らなければならなくなるし、ネタが尽きかけたころに第2第3の別の恐怖(ベジータ倒したからフリーザだみたいな)が出てきたりしたら
恐怖の大暴落だ。
最終的に幽霊はキャラクターとして成り立ってしまう。
キャラクターとして幽霊が生き生きしてきたら、それは幽霊としては死んでいるようなものだ。