守らせる為だけの校則は意味あるのか?

学校には多かれ少なかれ校則がある。
僕の母校にももちろんあったし、管理教育の残滓のような校則や決まりがあった。

その多くは守らせる事が目的であったような、無いように意味はなさそうに思えた。
修学旅行時パジャマは無地でないといけない。
遠足時グミは持参禁止。
部活の参加強制と脱退禁止。

…思い出してみるとそうたいしたことないな。

他の人に聞いてみると、
男女交際禁止であったり、
特定テレビ番組の視聴禁止、
学区外への外出の許可制、
髪型の指定
などがあるようだ。

もちろん、校則でも必要なものはある。
生徒の安全を守るため立ち入り禁止区域を設けたり、外出禁止時間を設けたり、
適切に授業運用をするために私物の持ち込みを制限したり、
そういう明確な意図が分かれば良い。

だけれども、守らせる為だけに存在している校則というのもある。
髪型の指定やプライベートでの制服着用義務などだ。
学校側には恐らく中学生らしさとか清く正しく成長するためという曖昧な意図があるらしいが、
その効果も分からず、ただ守るための校則だけが残っているような状態だ。

変更する規則も含めて校則

法律には法律を変えるための決まりが有って、
時代とともに改正されていく。

校則にはその改定される規則が明文化されているところがすくないのではないか?

決まりだからということでずっと守られていたり
有名無実になっていて、たまに思い出されたように罰則のための大義名分に担ぎ出されたりする。

化石のような校則について文句をたれると、
「悪法も法だ!」とか
「規則を守る教育のためにある」
と説教される。

だが待ってほしい。
守るためだけの人間を作ることは本当に正しい教育なのか?
現行法の問題点を見つけ改善する知恵を出したり意見を言ったりできる人間の方が組織に必要ではないのか?

業務プロセスにも無駄な伝統行事のような仕事が多く残っている場合が有る
そういうものに目をつけて改善をするという視点は仕事には必要だ。

上から貰った仕事をただ黙々とするだけの人間は必要ない。

悪法も法だが、それは改善されるべきでそのために改正する余地を法は残している。

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