バスケ部主将自殺問題。人は恐怖より評価を欲しがる

あるいバスケット部主将が顧問の体罰に耐えかねて自殺した事件が起きたて、
体罰という行為がクローズアップされて問題視されているが、体罰よりももっと根本的な問題が有ると思う。

ニューズウィーク日本語版に『「追い出し部屋」と「体罰自殺」の何が問題なのか?』という記事を読んだが、
それではこの問題は体罰だけでなく精神的苦痛が原因で、このような問題が絶えないのは精神的苦痛に対する責任を問う法が整備されていないと書かれていた。

想像するに部員たちは現代の若者であり、主将が殴られていても「だから主将というのは損な役だよな」とか「可哀想だけど、俺達はそれなりに勉強時間も必要なので猛練習っていったって限界あるよな」というように「醒めていた」可能性があるように思います。あくまで想像ですが、そんな中で「チームを強くするためにお前を殴る」という顧問と、「自分は殴られ損」だとか「マイペースの部員と暴力的な顧問の間で自分は板挟み」という「精神的苦痛」を抱え込んでいた可能性が濃厚です。自殺の直接の原因は、体罰が「痛かった」からではなく、そうした種類の「精神的苦痛」だと思います。

冷泉さんが想像されているように、主将が叱られ役になり周りはそれを盾に逃げていたということは想像に難くない。

恐怖による指導

この顧問の指導法の意図は、主将にはチームのリーダーという責任と
チームメイトには個人の問題ではなく主将とチームの問題になるということを実感してもらうための指導だったのだろう。
また、日々から高ストレス状態に置くことで、試合のプレッシャーにも耐える精神力を培う意図もあったのかもしれない。
そして主将というチームの中心人物ということでより厳しく当たったのだろう。

こういった指導は軍隊でよくやっている。
少しのミスが部隊全員の命取りになるのだから、厳しくもなるが
それもまた問題で、各国で毎年かなりの自殺者が出ているそうだ。

恐怖は分かりやすい。
『愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする』とスターリンが言ったように、
恐怖は長く行動を規制させる。
ミスをすることで叱責される恐怖から逃れるために、ミスをしないようにより注意をしたりする。

だが、自分の行動だけで回避できればいいが
この主将のように責任ある立場であり逃げることもできず、さらに自分ではないメンバーのミスも叱責されたとしたら恐怖を回避することはかなり難しくさせる。

また、中高の部活というのは辞めることは江戸時代の脱藩のように困難を伴う事だ。
普通の学校ですらいじめの対象になりやすい脱退だが、
この高校はバスケ強豪校でその中心である主将だ。
自殺する前に逃げればいいという人がいるが、彼は部活を辞めたあとの学校生活を想像しても絶望したのだろう。
村八分のように扱われたり、顧問により強い叱責や体罰を受け、メンバーからはいじめられ、
退学しなければならないかもしれない。しかし両親も主将の息子を自慢に思っているだろうし、ここでドロップアウトすることは周りはとても許してくれそうにない。
それにバスケットを続けることもできなくなる。

そういう要因が重なって逃げるに逃げられない、逃げるには命を絶つほか無いという気持ちにさせたのだろう。

また恐怖は、恐怖から簡単に逃れる方法をさがさせる。
チームメイトも主将が叱責されている事を横目に見つつそれを盾に自分に怒りが振ってくることを回避していたのだろう。
昔であれば楽も苦もチームで共有という価値観が有ってチーム一丸になる有効な指導だったかもしれないが、現代では個人主義のほうに価値が見出されているわけで、
時代に即した指導とはいえない。

期待による指導

このような恐怖による指導は、人間の能力を引き出せない。

叱責されたとしても、人間は言い訳を考えたり反発したりすることも多々ある。
人間は怒られるよりも、正当に評価され期待を寄せられるほうがより頑張ろうと思うし
努力もする。そして努力により評価されればより頑張る。そのように高パフォーマンスを発揮することができる。

それは甘やかしではない。
正当な評価と期待だ。

誉めることを甘やかしだと言う人がいるが、正しく正当な評価をすることは
それに見合った働きが有ったからであって、
甘やかしとは見合ったことをせずにただ誉めることだ。

人の承認欲求は強い。
認められたいという事は恐怖から逃れるのと同じように、もしくはさらに強く人にエネルギーを与えてくれる。

尊厳ある扱い

叱責も必要な場面はあるだろう。
厳しさも時には必要だが、そのあとのフォローや、みているところは見て正当な評価と期待を寄せることを伝えなければ怒られた事で恐縮したり逃げたりしてしまう。
そのような期待や評価などの心のよりどころを顧問は主将に与えなかったのではないか?

また、叱責は行為に対して叱責するならば救いようはあるが、
時として人格否定まで含む叱責をする指導者もいる。
もちろんこの顧問がそうであったというわけではなく一般的な問題として結構な人数がいるのだとおもう。
この場合は、直せるようなものでもなく今まで寄せられていた期待や評価も無に帰してしまう。

根性だけではどうにもならない。

体罰だけにクローズアップするだけで終始せず、
体罰が伴っていなくても、このような前時代的な指導方法がされていなかったかどうか、
そして他にもないのかどうかということを明らかにしてもらいたい。

 

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