何か事件や事故があった時、その原因を人は探ったり考えたりする。
財布がなくなったら、
家に忘れた?
カフェに置き忘れた?
道に落とした?
盗まれた?
というようにいくつかの原因の候補を考えるわけだ。
そして、家族に電話して財布の有無を確認し、それでもダメならばさっき寄ったカフェに聞く。
だけれどもそれらのプロセスをすっ飛ばして、いきなり原因を決めつける人が少なからずいる。
財布を盗んだのはAさんだ!とかね。
Aさんが金に困っているとかそういう事がもっともな証拠のように思って、
それに固執するタイプ。
よくそういう人をみるね。
明らかに老衰なのに被曝したと思ったりする人や、
選挙に負けたことを選管の陰謀だとか、
某国の陰謀とか某社の陰謀とか上げればきりが無い。
問題の切り分け方がおかしい。
単純なところから攻めろ
昔の人は、仮説について良い指針を示してくれた。
オッカムさんは「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」と示してくれた。
多くは科学で使われている言葉だけれども、日常生活でも使える。
物事は意外と単純な事が多い。
特異な事というのはあまり発生しない。
もちろん、本当に特異なことが発生したのかもしれない。
本当に陰謀かもしれない。
だが、それは一番最初に考えるべきではない。
最初に多くの仮説を取り入れてしまうと、それに固執したり、迷ってしまうことになってしまう。
何か反証の証拠が出た場合は新たな仮説でその場をのり切ろうとする人もいる。
これはアドホックな仮説っていうやつだ。
極端な例では、Aさんのアリバイが有ったとしたら、「Aさんは双子なんだ」という仮説を持ち出すようなもの。
そういう極端な仮説を支持する人たちにはすでにストーリーが出来上がっていて、
仮説はすべてそのストーリーを完成させるためだけの道具なんだろうね。
信じたい事をただ補強するだけで見たい事を見ないようにしているのかもしれない。
でも、人ってのは見たくないものは見ないようにするもんだしね。
だから、心地のいい仮説や言い訳になる仮説を支持しがちだ。
そうならないように、仮説を持ち出すときは正当なものなのかを吟味しないと
自分の願望に引っ張られて真実を見失ってしまう可能性がある。