実名報道騒動に思うこと

例のテロ事件の被害者の名前を公表しないという事で、マスコミ各社が公表してほしと言ったり、
実名報道する義務があるという意見をブログやツイッターで公開するマスコミ従事者などが居たりして、
テロそのものよりもネットではもっぱらこっちのほうが盛り上がっている。

実名を報道することで、歴史に刻むとか弔いをするとか、社会に問題を提起するためだとかそういう意見があるが、
何よりも本人や遺族の意思が最も尊重されるべきでしょう。
非業な死は社会全体で共有されることもあるが、当事者であるのは何よりも本人と遺族だ。
当事者の死生観を尊重しないで弔いとかを言うのは傲慢に聞こえる。

今日、『ロードス島攻防記』という本をちょうど読み終わったんだ。
オスマン帝国とロードス島に本拠地を置く聖ヨハネ騎士団の戦いを描いた歴史小説。
その中に書いてあったのだけれども正ヨハネ騎士団の騎士は戦死しても名前が記録に記されないそうだ。ヴェネツィアなどは誠に詳細に記録を残しているそうだが、
聖ヨハネ騎士団では何月何日に何名がキリストの許に召されたとだけしか記されないそうだ。
これは神に身を捧げたものの慣習みたいなもので、名を残すのはかえって不敬にあたるそうだ。

これは昔の話であって、時代も場所も全く違う日本とは関係ないと思われるだろうが、
死に対する人の受け止め方というのはそれぞれ違うという事だ。
歴史に名を残したいと持っている人もいれば、ひっそりと居なくなりたいという人もいる。

それに今回はまさに唐突の死であって、遺族にしてみればそれだけでもストレスであるのに、
意図せず周りが騒ぎ立てられるということになったら更に居た堪れなくなってしまう。
周りが同情の目を向けたりされることで辛い思い出が蘇って、再び死の悲しみに打ちひしがれるということになるかもしれない。
実際にそっとして欲しいと思う人も多いはずだ。
もちろん、墓標として歴史に名を残したいという人もいるし遺族がそう望む場合ももちろんあるだろう。
それは当事者がそう望むのだからそれでいい。
ただ第三者が口を出して、こうあるべきであるというのは傲岸だ。
特権階級か何かかと思っているのだろうか。

今までも過熱報道により遺族が困っているという事例が多々ある。
地震の時には、まるで悲しみのある言葉を引き出そうとするインタビューに辟易した人もいるだろう。
そのような絵になる不幸話が欲しいだけではないかと穿った見方をしてしまうのも今までの実績からでは無理はない。

社会のためとか弔いのためとか言っているが、そんなのは就活生の面接での社会貢献の理想と同じくらい曖昧で実態のないものだ。
その死に最も触れているのは遺族だ。
遺族がその死をどう弔うか、そして次世代に伝えていくかを決めていくのだ。

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