高砂市教委:6中学の机・いす入札、「いじめ」理由に応札拒否 「同じでないと」 /兵庫
この記事を読んだんだ。
椅子を購入しようとした高砂市教委が、椅子が違うものということで購入しないことにしたそうだ。
理由は違う物を使っている生徒がいじめの対象になるということらしい。
まったく、一番やってはならないいじめ対策だ。
人と違う事は避けるべきであるというスタンスを学校側がとっているわけだ。
椅子だけでなく、背や成績、美醜、親の職業、人種など生徒の生活環境によって違う事なんか沢山あるわけだ。
人と違うことは避けるべき隠すべきという事を学校側が行ったら、このようないじめは無くならない。
むしろ、酷くなるのではないか?子どもは大人が思っていることを敏感に察知する。
もし、違う椅子や机を使って可哀想だなと教師が思えば、子どもたちはそれを察知してしまう。
まったく見当違いないじめ対策だ。
同調圧力を増大させるだけだ。
もし、人と違う椅子を使う事でいじめが深刻な問題ならば、
複数の椅子を混ぜるように配置して、人と違う事がおかしくない状況にしておけば良いと思う。
とにかく差異が有るのは当たり前、人と違う事は当たり前という事を教育するのが学校の務めだろう。
実際学校ってのは同調圧力を増大させるようなことをやっていると思う。
パーマや染髪を禁止するときに、天パーや元々明るい髪の色の生徒に関しては届け出が必要とかあったところもあるそうだ。(今はさすがにないかもしれないけど)
ほかにも髪型の統一をさせて、違う生徒は罰するとかあった。
今は無いけれど、休日でも制服の着用を義務とし私服は禁止されていたところもあった。
管理教育が激しいころだったら、流行を追う事は禁止されてロックなど聞くことができなかったこともあるそうだ。
今でこそその管理教育は少なくなったが、教育現場の上にいる人たちはそのころから教師だったわけでしょう。
その頃の残滓が今も残っているんだよ。
管理教育は型にはめる教育で、型からはみ出る者を出さないようにしている。
異物を無くそうとする方向に行っている。
だから、今もこういう判断をしているんじゃないか?
管理教育はもうすでに過去のものではあるが、今でも服装の規定とか行動の規制とか学校教育のフォーマットは同じだとおもう。
やっぱり同じ事をさせるという事が根底にあるんじゃないか?
そして人と違う、いつもと違う事は許さない体質にもなっている。
いじめがあったことを隠したり、いじめ被害生徒を退学させたり、今までの体罰を伴う教育を放置しておく、
人と違う事をやらない環境で空気が入れかわらないんだ。新しい事をやりたがらない。
こういうところから腐敗がはじまっているのではないだろうか?