『ローレンツと体罰』という記事を読みまして、
そこで体罰の会という団体が有ることを知った。
このブログは体罰の会サイトのトップページにある趣意書を批判している。
僕もその趣意書を読んでみたら、これは面白い。一読の価値が有る文章だ。
要約
趣意書自体はまあまあの分量が有るので、読者にも分かりやすいように要約をしてみる。
ただ、本文は読んでおいてください。
<初めは体罰とは何かという説明>
体罰は進歩を目的とした教育で、進歩を実現するためには必要不可欠だ。
暴力や虐待は体罰とは根本的に違う。暴力や体罰は考え間違いや心の弱さなどを原因としている。
人が進歩するためには躾や鍛練が必要だが、それは苦痛を伴う。本能的に人間は不快を避ける。
だが、不快を避けては進歩は望めない。
不快を避けて怠惰なままでいると、進歩せず社会全体の民度も落ちる。
よって、矯正のために体罰が必要になる。体罰は進歩を実現するための最も重要な手段である。
<体罰の科学的根拠>
怠惰なものが一人いれば集団の秩序が乱れる。
コンラート・ローレンツは「種内攻撃は善」ということを証明した。
動物の本能として秩序を守るために、種内の攻撃がありその重要なものが体罰である。
体罰は動物的本能からいっても正当な行動である。
<反体罰論者への反論>
体罰を悪という人がいるが、それには科学的な根拠がない。
進歩を目的とする体罰が悪であれば、教育全体を否定することになる。
反体罰論者は虐待と体罰を同一視するが、虐待は憎悪の発露であり人間独特であり、歪んだ理性によるものである。
一方体罰はローレンツが示したように動物的本能である。
いきすぎた体罰に対する批判をする者が有るが、体罰は無条件、無制約に行うものではなく、どの程度必要かは考えなければならない。行き過ぎた体罰=体罰禁止というわけではない。
学校体罰が禁止され家庭内体罰は容認されているが、それは矛盾であり、
学校体罰を否定する科学的根拠はない。
科学的根拠がなければならない。
体罰否定論は体罰禁止教という宗教にも似たものである。
戦後教育が教えてきた理性教育では愛すべき親や子供を守ることは導かれない。
体罰禁止によって秩序は崩壊した、それを矯正するには体罰が必要だ。
体罰禁止の洗脳から解放されることが必要だ。
論理の飛躍
そのことを動物行動学を確立してノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツが科学的に証明しました。それは、「種内攻撃は悪ではなく善である」ということです。ここで「善」というのは、種族保存のために必要な秩序維持に必要不可欠なことを意味します。決して、理性的、宗教的に判断した「善」のことではありません。善悪は、理性で決するものではなく、固体と種族の本能(生命原理)に適合するか否かによって科学的に決定されることを意味します。種内攻撃は、すべて種内の秩序の形成と維持のためになされます。決して秩序を壊し秩序を乱すためになされるものではありません。人間以外の動物は、秩序を壊し秩序を乱す結果を生む種内攻撃をすることがありません。そして、本能的行動としての種内攻撃、つまり、同種内における有形力の行使は、種族維持、秩序維持のために必要なものであることを説いたのです。この種内攻撃の最も重要なものに「体罰」があるのです。
中盤あたりに、体罰に関する科学的な根拠がしめされた。
生物学のことは僕は全く分からないので、この種内攻撃についての説の妥当性はとりあえず妥当と仮定しておく。
だが、妥当としておいても体罰に根拠が有るという事を導くのは難しい。
動物は秩序を守るために同種内で攻撃をする。⇒ 人間も体罰をする。 ⇒ 体罰は本能的な秩序維持のための正しい攻撃である。
という論理展開がされているようだ。
だが、動物の秩序を守るための同種内攻撃が人間の体罰に当たるかどうかというのには、検証が必要である。
二番目の命題から三番目を結論づけるには、根拠がたりないのではないか?
また動物的に正しいとしても、それが人間社会でも妥当性あるものなのかは別問題だ。
上で紹介した体罰の会を批判するブログでも、子殺しをするライオンや猿の話がでていたが、新しいボスになったときに前のボスの子を殺すそうだ。
それが本能だとしても人間社会では認められるものではあるまい。
動物によって秩序を守る攻撃というのは違うのだし、人間の体罰が本能であるとはいえないのではないか?
また、この話はノーベル賞学者と科学という権威に基づいた論証であって、科学的な論理ではない。
一部の批判が全体の批判になっている
ところが、それでも体罰は悪であるという人がいます。しかし、これには前に触れたとおり科学的な根拠がありません。それどころか、進歩を目的とする体罰が悪であれば、それ以外の方法による進歩を目的とする強制力もすべて悪になります。体罰のみが悪であるとする根拠がなく、進歩を目的とする強制力のすべてを否定することは、結局のところ教育それ自体を否定することになります。
よく読んでもこの部分は意味が分からない。
体罰は悪= 体罰以外の進歩を目的とする行為すべてが悪になる。= つまり教育自体を否定することになる。
教育という分野の中に進歩を目的とする強制力ってのがあって、その中に体罰ってのがあるらしい。
その末端にある者が否定されるとなぜ全体が否定されるのだろうか。
中居君をイケメンではないということは、スマップをアイドルであることを否定することであり、ジャニーズのイケメン性の否定だ。という論法と同じなのか?
体罰反対論が教育を否定しているという印象を作ろうとしているとしか思えない。
動物の本能と人間の理性
本能に忠実な人間以外の動物は、無益な殺生や虐待をしません。親殺し、子殺し、夫殺し、妻殺しのような犯罪も犯しません。家族維持や社会秩序維持の本能が劣化すれば犯罪が起こります。虐待とか犯罪が起こるのは、人間にしかない歪んだ理性によるものです。犯罪とは、「歪んだ理性のアダ花」というべきものなのです。
体罰は本能であるという話から繋がってくるこの文章だが、動物は子殺しとかしないらしい。
だが猿とかライオンとかで子殺しはするらしいし、群れのリーダー権争いで親子が殺しあう事だってある。
体罰は本能によるもので、犯罪は歪んだ理性(人間性)によるものだと対比して体罰を正当化しようとしているのだろう。
だが、その本能とやらも無条件で受け入れられるものではないかもしれないではないか。
宗教呼ばわり
明らかに教育科学に反します。科学でなければ、それは特異な思想か宗教的教義に他なりません。いわば、教育が「体罰禁止教」に支配され、いまや教育は再生不能の状態にまで陥っています。
後半には体罰禁止の事を、体罰禁止教としてまるでカルトのように言っている。
これらは学校体罰禁止や家庭体罰容認の矛盾などの科学的根拠が無く運用されているという事を非難してこう言っているのだ。
だが、科学的根拠が無いということばかりを連呼していて、反体罰論側の意見を取り上げてそれに反論をしていない。
つまり、「自分たちには科学的根拠はある。今の制度には矛盾が有る。反対論者の言い分には根拠はない(その言い分を取り上げてはいない)。カルトのようなものだ。」といっている。
自分たちの教育の正当性ばかり主張しているが、反体罰に対する合理的な反論がされていない。
科学的な対立であれば、合理的な手続きで双方の主張を定量的に客観的に見ていかなければならないだろう。
だが、彼らの言い分は自分たちは科学的で相手は非科学的であるという事だけに終始して、根拠が薄い。誰それが言っていたといってもそれは権威に基づく詭弁でしかない。
科学であるという事を標榜しているが、単なる自然科学の話を入れれば科学的になるというわけではない。科学的な手続きが必要だ。
だからトンデモと思われてしまうのだ。