疑似科学と道徳 -下村文部「疑似科学」大臣の醜態より邪推する疑似科学信者の思考の傾向-
というブログを読みました。
疑似科学に傾倒している人や所謂放射脳と言われう人たちの思考のパターンを分析しているのだけれども、
疑似科学信者は科学風の説と道徳を結びつけて論じて、科学的な妥当性がなくても、道徳的には善い行いだと結論づけるとしていた。
なるほど、そうだ。
先日、ブログで批判した体罰の会も生物学的な説と教育という道徳に結びつけている。
道徳など人間的な価値観を補強するために科学を用いるのは危険だ。
科学的なことであると宣伝されれば、大衆はそれが正しいものだと盲信してしまいやすくなる。
専門的な人間ならば、実験の妥当性や統計の偏りとか批判はできるだろうけれど
市井の善良な人ならばそのまま鵜呑みにしてしまうこともありえる。
なぜ科学に道徳を持ち込んではならないのか?
科学は人間かどうかなど関係なく起きる現象であるし客観的なことであるが、
道徳的な善さというのは人間的な価値だし、その価値は別の文化では変わってくるわけで、恣意的な基準なわけだ。
だけれども科学的客観性がつくと、その道徳的良さが普遍なものという印象を持ってしまう。
さらに、科学は一般的には変わらないものだとも思われている。だから普遍でかつ不変な価値のある道徳だと人にミスリードさせてしまう。
科学的善さとは何か。
客観的に、定量的に示すことができて、そして反証される可能性があるということ。
そう、反証が可能であることというのが重要だ。
科学であろうともそれが真実であろうとも盲信しない。見直されるプロセスが科学にはある。
ただしそれは人間的価値によって変わるわけではない。あくまでも客観的だ。
(ニュートン力学と相対性理論では、昔はニュートン力学の世界が正しいと思われていたが、時間は相対的であったと証明された。このように反証されることもある。だけれどもニュートン力学は局地的には物体の動作を正しく客観的に説明してくれる。)
ちょっとまえにTwitterでこんなツイートを見た。
科学くん「僕は万能じゃないし、君が求めてるような答えも出せないかもしれない。でも僕は君に対していつも誠実でいたいと思うんだ」 似非科学くん「あいつ頼りないよね!ダメだよね!心配ないよ!俺がついてれば大丈夫さ!いつも君が正しいよ!君の問題は全部僕が解決してあげるよ!」
科学は不完全で、真理とか絶対的な正しさを求められるようなものではない。
あちらが立てばこちらが立たない。過去の成果を覆すことだって多い。
今わかっている事を足場にして手探りで前に進もうとしていて、逆戻りすることもあるそんな迷路のようなもの。
ただし一般の人は科学は証明されたら唯一絶対の真実みたいなものと思ってしまうことがある。
そこが疑似科学のポイントなんだ。
唯一絶対的な正しさを持っている考え方ですよと無批判に人に受け入れさせてしまう。
科学も、そして道徳も批判する作業が必要だ。
批判というのは誹謗中傷したり貶めたりすることじゃないよ。
比較して判断するというような、これは妥当かどうかと理性的に考えることだ。
科学に真理や道徳を結びつける言説には注意が必要だ。
それは科学に偽装して、思想を無批判に受け入れさせようとしているかもしれない。
人への思いやりや環境保全など、道徳的には価値のある行動を促すことはできるかもしれないが、
その逆もできるわけで道徳の名の下の選民思想だったり、民族浄化だったり、そのような危険思想のプロパガンダに利用されることもある。
道徳的な善さを促せるとか、血液型性格診断で会話の潤滑油になるとか、健康に気を使えるようになるとかそのような効果があったとしても、
疑似科学が人にそう信じさせるプロセスは不誠実だ。詐欺と言ってもいいかもしれない。
僕達は、このような疑似科学には警戒しなければならない。