自然保護というと、「地球のために」とかそういう事を言う場合がおおい。
絶滅種が出ると「地球が泣いている」とかそういうでしょ。
それらの言葉に僕は常日頃から疑問を感じている。
地球のためにという言葉が示す自然というのは、人間が夢見る自然だということだ。
森林が伐採されて、海が汚くなり、サンゴが減少し、絶滅種が増える。
たしかにこれは忌むべきことだ。
だけれども、人間が根絶した天然痘ウィルスについては思いをはせる人はいない。
最近結核が増えているが、それを注意喚起するポスターには結核に罹った地球が描かれていた。
地球にとっても結核はあってはならないものなのか。
そんなことはない。
天然痘や結核、他にも害虫や危険な生物は確かに人間には都合がわるく、根絶させることには正当性はある。
人類のためではあるが、地球のためではない。
天然痘ウィルスだって結核だって地球に生まれた地球の家族だ。地球のためにというならば本来ならばそれだって保護しなければならないのではないか?
ディープエコロジストと言われる人たちの中でも、もっともラディカルなエコロジストの人たちならば、人類が絶滅して人間に都合の悪い生物たちも全部保護すべきであるとか言うかもしれない。
彼らに言わせれば人間とい一つの種が地球の環境を変えるくらいならば絶滅するか原始的な生活に戻るべきであるというかもしれない。
だが、酸素を除去すべきであるとは言わない。
酸素は光合成をする植物ができて地球の環境が激変してしまった。
それにより嫌気呼吸をする生物の大量絶滅が引き起こされた。
生物によって地球の環境が変わるという事は人間以外でも引き起こすことがある。
もちろん、人間が発生する以前の事で僕の言うことは極論であるという事は理解している。
だが、人間もひとつの生物であって僕らがすることと、他の生物がすることに何故違いがあるのだろう。
誤解しないで欲しいのは、このまま環境汚染を続けるべきであるとか言うわけではない。
クリーンエネルギーにシフトしていく事は大切であるし、絶滅種を減らして環境を保持していくということは大切であると理解している。
ただ、それを地球のためにというのは驕っているように感じる。
地球の環境は絶えず変わってきた。
人間が引き起こした二酸化炭素の量よりもひどく多い時代だってあった。
大量絶滅が怒ったことだってあった。
人間が引き起こした環境の変化はそれらに比べれば小さなものだ。
もちろん今のままの状態は僕らや僕等と同時代に生きている動植物にとっては都合の悪いことはわかる。
それを改善することは理解できる。
ただ人間が生きるための大義名分を地球のためにというのは驕りである。
まるで地球の領主のような振る舞いだ。
地球のためにと言いつつ、人間が思う自然象をただ押し付けているに過ぎない。
僕は、人類が生き延びるため、そして人類が残って欲しいと思う自然を残すことには賛成だ。
だが、あくまでもそれは僕ら人間のためだ。
こういうと、弱肉強食だからねという人がいるが、弱肉強食とはちょっと違う。
ただ現在ある環境の変化に場当たり的に対応して行くだけだ。
その対応による変化が他の生物に影響を及ぼすかもしれない。
そうやって互いに影響しあって生物は多様性を手に入れている。
強いものが生き残るのではなく、強いも弱いもなく、互いに環境に適応して影響を及ぼし合っている。
そう考えれば、文明否定ということにもならない。