イジメられる側にも原因はある!
と言う人がいる。
イジメる方にも何かしらの理由があってやっている。だからイジメるほうの言い分も斟酌されるべきだということなのだろうか。
たしかに、イジメられる側にも『原因』はあるだろう。
人付き合いが下手。生理的に不快感を感じる。空気を読めない。
などなど
だが、『原因』はあっても『責任』はない。
何かしらの原因があっても虐げられなければならないことはない。
仲良くできないタイプの人間はいるのは仕方ない。
皆で仲良くしましょうというのは有り得ないと思う。
だけれども、それで私刑を行うのは常軌を逸している。
何かしら原因があったとしても、イジメをしてしまったという事の言い訳にはならない。
この原因=責任という言い方をする人結構いるとおもう。
例えば痴漢。
被害にあった人にも原因があったはず =責任があったはずという論法でいう人がたまにいる。
逆に痴漢冤罪であれば、
間違われた人が紛らわしい事をした = 責任があったのは男のほうだ。という事を言う人もいる。
鬱病などもそうだね。
精神的な弱さという原因があった=責任があった。という論法だ。(精神的な弱さで鬱病が発症するわけではないが、大体このような責任を押し付ける人は弱さとかそういうことをいうので、こう表現した)
こういう原因=責任論法で被害者と加害者を相対化しようとしている人たちは、正しいことをしているという価値観があるんだろうね。
だから弾劾されてもよくわからず、向こうが悪いんだ!と言い出しているんじゃないだろうか。
痴漢被害者に責任を押し付ける人は、きっと男女に社会的地位の違いがあると信じているんじゃないだろうか。
男のほうが偉いと思っているかもしれない。
逆に痴漢冤罪のほうだと、責任を押し付ける人は上と逆に女は男より優位であらねばならないと信じているのかもしれない。
鬱病などを患者に責任を押し付ける人は、その高ストレスの環境が精神的向上になると思っているかもしれない。
そしてイジメをした側も、学校や職場の雰囲気を壊す異端を排除しようという事に正義を感じていたのかもしれない。
自分は正しいと思ってやっていることは中々改善されにくい。
体罰などの問題もきっと正しいと思う心から来ているんだろう。