自分の仕事ではない事を主張することの意味とは

 

「これは私の仕事ではない」が強く言えない日本の職場

脱社畜ブログの主張に対して、

これは私の仕事ではないを貫き通すと、何もできない人になる

このような反論もでているようで、
両方読んだのだけれども、双方の話は噛み合っていないように思える。

さらに脱社畜ブログでは反論を返している。

これは私の仕事ではないを貫き通しても、何もできない人になるとは限らない

 

脱社畜ブログでの指摘ポイント

脱社畜ブログでは、自分の与えられた仕事や成果というものが曖昧で、
チームの仕事を空気を読んで仕事をしている状態を批判しているのだろう。
与えられた仕事のみを頑なにやれば良いという意図ではないと思う。

反論されたGoTheDistanceの主張は、自分の与えられたことをやっていれば良いという事に対して批判をされているようだけれども
それは少し噛み合っていない。

冒頭で、
“「働いている」姿勢を常に見せ続ける以外に自分が義務を果たしていることをアピールする手段がないという職場を知らない”
と言われていたので、そこが認識の違いなのかなのかと思う。

脱社畜ブログが言いたいことは、
仕事の義務が明確に分かれておらず、
メンバー全員が何処までが自分の最低限しなければならない仕事なのかもわからないため、
チームの仕事すべてが自分の責任の範囲になってしまうことだと思う。

チームの責任は間接的に負っているのは確かなのだが、
仕事の範囲が明確でないと、特に納期などが差し迫った状態でなくとも、
終わりのない仕事に忙殺される可能性がある。

明確な仕事の範囲が決まっていない以上、チームの全仕事は全メンバーの責任になる。
誰かが残って仕事をすれば、自分の仕事を別の人が残ってやってくれているという空気になってしまう。
そして、チームに貢献する意欲の高い空気を読める社員が残業してバリバリ仕事を始めると、他の社員も残って仕事をしてしまう。

勿論、チームに貢献するということはチームにも会社にも個人にも良い事ではあるかと思うが、
自分の仕事と他の人の仕事が明確に分かれて居ないチームでは、多く仕事をした者勝ちになる。
そして明確な区別がついていない職場だと、往々にして評価の基準も曖昧である。
誰が何をするという区別がついていないので、誰が何をしたという明確な証跡がなく、長い時間残業した者が評価される。

この仕事の範囲と評価の曖昧さが、脱社畜ブログでの主張ポイントだとおもう。

曖昧さの弊害

また、仕事の範囲が曖昧だと、多く仕事をしたものが勝ちということになるが、
さらに簡単な仕事をこなしたものが得になってしまう。

簡単な仕事を長くすると評価はされるが、困難で誰もやりたがらない仕事は誰かが人柱になってしまう。
しばしば弱い立場の人が割りを食う。
このようにチーム全体の仕事の割り振りという面でも、適切なリソース管理ができなくなる。

自分の仕事の成功については曖昧である一方、失敗に対しては個人の責任は明確であるというブラックな職場も多い。
もし、仕事の範囲が曖昧な職場がこのようなブラックな要素も兼ね備えているとすると、
社員同士の足の引っ張り合いや、失敗の隠蔽、長い稼働など効率が激しく悪くなる。

だからこそ、効率良く誰が何をやるのか人員の管理をすべきである。

曖昧さをなくしつつ、自分の仕事ではないこともやるようにするには

誰が何かをやるというとりあえずの仕事の範囲が決まったとしても、
人の仕事を率先して手伝っていくという事にも問題はある。

特定の人の仕事が多い場合には、助けることも重要だけれども
まずは人員の割り振りも再度見直す事が最も重要ではないだろうか。

率先して自分のやる事以外の仕事を見つけるということは大切だが、
手伝いという曖昧な形で仕事をするのは危険だ。
誰が何をやったのかが曖昧になり、手戻りや不具合が生じた場合当時の状況を調べるのにも時間がかかるだろうし、
手伝ったという証跡がなければ、やったやらないという責任の押し付けのような状態にもなるかもしれない。

まずは手綱を握るリーダーなりマネージャなりに現状を報告して、自分がこの仕事をやったほうがいいのではないかという相談し、
正式に自分の仕事にするような仕組みにすべき。

仕事量が偏っている部分も明確になるし、
自分が何をやったかという事が明確にもなるし、評価する人にも合理的なアピールができる。

自分の仕事ではない事を主張することの意味は、決められた自分の仕事だけをやるということではなく、
誰が仕事をやるべきで、誰がやったかという事を明確にしろという事だ。
ひいては空気駆動の仕事ではなく、合理的な人員管理がされた仕事をしろという事だ。

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